因果関係の樹立
ようやく役者がそろってきたので、因果関係の検討が可能となりました。原因は結果に先行するはずですから、これらの事象の時系列が検討され、
アミロイドペプチド(Aβ)の蓄積→タウタンパク質蓄積→神経細胞死
という順番が確立されました。また、現在では、神経細胞死の前に実質的な症状の原因として神経機能不全が存在すると想定されています。
しかし、これだけでは厳密な意味での因果関係の樹立にはなりません。原因と想定される事象が、単なる付随的現象に過ぎない可能性も否定できないからです。この因果関係の検討において決定的な役割を果たしたのが、家族性アルツハイマー病です。患者さんや家族には幸いなことだった思いますが、人類遺伝学研究において、三つの原因遺伝子が同定されました。
最初の発見は、病理生化学によるAβの精製でした。次に、アミノ酸配列が当時最先端のペプチド化学によって決定されました。このアミノ酸配列をもとにアミロイド前駆体タンパク質の遺伝子がクローニング(遺伝子を単離すること)されました。そして、アミロイド前駆体タンパク質の遺伝子変異が、英国のある家系に見出いだされたのです。これによってはじめてアルツハイマー病は、
原因(家族性の場合は遺伝子変異として規定される)→分子レベルの病理→解剖学的病理→臨床像
といった一連の因果関係を検討することが可能になりました。
ここで大切なことは、アルツハイマー病患者の大半を占める孤発性アルツハイマー病も同様の病理像、臨床のを示すことから、前者に関する知識の多くは後者にも当てはまるという事実です。
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100年前に発見されたアルツハイマー病
科学することの本質は、「因果関係の樹立」と「メカニズムの解明」です。そしてそのためには研究対象を詳細に記述しておかなければなりません。これは「現象論」や「博物学」と呼ばれるものです。研究は研究対象に名前を付けることからはじまります。アルツハイマー病研究もそのようにしてはじまりました。たとえば天文学では、古代に星や星座に名前を付けられ、16世紀以降、コペルニクス、ガリレオ、ケプラーらによって天体の運動が詳細に記述されました。数学的に惑星の運動法則化することに最初に成功したのはケプラーです。さらに、ニュートンやライプニッツが確立した微積分学によって古典力学の対象として発展してゆきます。
その後、電磁気学、相対性理論、量子力学、統計力学のおかげで、天文学は今や宇宙物理学となって発展を続けています。アルツハイマー研究史もこれとよく似ています。最初は一疾患の研究だったアルツハイマー病も、今や新しい生命科学分野を切り開くまでになりました。後述はしますが、アルツハイマー病研究によって今まさに花開こうとしている研究分野が一つあります。それはこれまで正常な現象と考えられてきた脳の老化(健忘症)を制御しようというものです。私はこれを「脳老化制御学」と命名します。
アルツハイマー病は1906年にドイツ人医師アロイス・アルツハイマーが、ドイツのチュービルゲン大学で発表した症例が世界で最初です。患者は50代の女性でした。論文として発表されたのは翌年の1907年です(したがって、2006年にまたは2007年がアルツハイマー病研究100周年ということになります)。そのころのドイツは医療品・衛生の最先進国で、平均寿命が60歳を超えていました。
一方、日本は今でこそ世界の再長寿国ですが、当時の平均寿命は40歳代でした。後述するように、アルツハイマー病の最大の危険因子は加齢です。ドイツで世界初のアルツハイマー病患者が見出いだされたのは、それなりの社会的背景があったからなのだと思います。最初の症例報告後、1910年に著名な精神科医のクレベリン博士によって、正式に″アルツハイマー病″と命名されました。とはいっても、当時は希な疾患で、根拠になったのは五症例だけでした。
100年後の現代に、患者が爆発的に増えることは誰も予想していなかったでしょう。今では、全世界で患者数が2000万人を超えると考えられています。この数字は今後さらに増え続けます。しかも、数年で患者が入れ替りますから、延べ人数はものすごい数になるわけです。患者数が一多いのは米国(米国 Alzheimer's Association によると500万人以上)とされていますが、患者の増加速度が大きいのは中国とインドです。世界人口のほぼ三分の一を擁するこれらの国では、経済の発展に伴って平均寿命が伸びていることが原因のようです(中国はすでに米国を追い越したとの指摘もありますが、後述する理由から患者数を正確に把握するのは困難なのが実情です)。東アジア諸国と日本は、遺伝的・文化的背景が比較的近いため、情報を共有する意識が高いと考えられます。アジアでは、日本以外に韓国・台湾・シンガポールの研究レベルが高いので、韓国・台湾・シンガポール・中国との協同研究を積極的に促進することは相互の利益に寄与すると思います。また、欧米諸国は日本は、人口の高齢化があるレベルに達した時点で、強い不況を経験しています。社会福祉と市場経済のバランスが限界点を超えたのでしょう。中国とインドが大不況に陥ると世界が困ります。この数年以内に何とかしなければなりません。
本プログによる実験データは、おもに次の文献にもとづいています。
井原康夫、荒井啓介行「アルツハイマーが、にならない」朝日新聞社 2007
貫名信行、西川徹編「脳神経疾患の分子病態と治療への展開」実験医学増刊号 羊土社 2007
本間昭編「臨床医のためのアルツハイマー型認知症実践ガイド」じほう 2006
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最新の生命科学により解明
アルツハイマー病は当初臨床医学や古典的病理学の手法で行われていたため、なかなか原因を捕らえることができませんでした。しかし、1980年代頃から基礎研究が導入されて基礎が築かれ、1990年代に入って研究は飛躍的に進歩しました。その主役は、生化学(タンパク質化学)、遺伝学、分子生物学、細胞生物学、発生工学といった生命科学の最先端の分析です。今や、アルツハイマー病の基礎研究と疾患研究は互いに影響を与えるだけでなく、研究の現場ではすでに融合していると言ってよいでしょう。以降、20世後半から飛躍的に進歩したアルツハイマー病研究の現状と将来への展望を解説することにします。一部、専門的な知識がないとわかりづらいところがあるかも知れませんが、そんなところは読み飛ばしてください。アルツハイマー病研究の概要を理解することが一番大切です。その気になれば詳しいことはいつでも勉強できます。
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脳老化の特異性とその本質
基本的に神経細胞は分裂後細胞です。つまり、肝臓細胞等と違って分裂し続けることができません。したがって、一度出来上がった神経回路を維持するためには、個々の神経細胞が個体の死まで数十年にわたって生存し続ける必要かあります。言い換えれば、脳の老化は他の臓器に比べて細胞分裂によって回復される割合が非常に小さいことになります。
また、神経細胞は他の細胞に比べて物理的サイズが大きい上にエネルギー消費量が高いので、様々のストレス(虚血ストレス・酸化ストレス・カルシウム恒常性異状など)に曝されやすいことが知られています。
このよう状況で、細胞分裂によらずに構造や機能な異常を修復・修正するためには、細胞内外の品質管理機構がとくに重要になってきます。たとえば、変性したタンパク質の蓄積を抑制するために、分子シャペロンやタンパク質分解システムが作用することはよく知られています。順天堂大学の水野美邦博士が発見した家族性パーキンソン病原因遺伝子バーキン(Parkin)は、細胞タンパク質分解を解剖する分子です。神経変性疾患研究におけるタンパク質分解反応の重要性はますます大きくなっています。Aβを分解するネプリライシン(後述)も家族性広義の品質管理タンパク質だといえます。
アルツハイマー病の大半は、80歳以降に発症します。2000年前の日本人の平均寿命は20歳ほどだったそうです。数百年さかのぼっても、80歳以上生きる人間はほとんどいなかったでしょう。しかし、ここで扱っているような脳老化のプロセスを特異的かつ積極的に制御するような機構は、元来合目的的な意味で存在しないだけでなく、進化による淘汰も受けていないと考えられます。加齢はガンを含む多くの疾患の危険因子ですが、アルツハイマー病が特徴的なのは、高齢者の罹患率の高さです。人類は文明の進歩によって予想もしなかった難問に直面したことになります。
このように考えると、50歳以降の数十年は、人類にとって「新しい生命時間」だということになります。老いは心身の衰えとしてとらえられがちですが、人類進化の観点で考えれば、新しい冒険の時代だと言い換えることができると思います。平均寿命が急激に伸びたのは近代医学の発展の結果です。特に抗生物質の発見の寄与は大きいと思います。これからの医学の役割の一つは、この新しい生命時間を出来るだけ健康に生きる道を開いてゆくことです。
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